1.蘆屋道満のこと 2.佐用の陰陽師 3.「信太妻」の陰陽師 4.吉備真備 5.播磨と陰陽師 6.牛頭天王と法道仙人
蘆屋道満(播磨の陰陽師)のこと
1)播磨の陰陽師(法師陰陽師)
古来、播磨国には、陰陽師が多く、その上密教と習合した法師陰陽師が目立ち、『宇治拾遺物語』の中に内記上人寂心が仏堂を建てるため、木材を求めて播磨国に下がったとき、法師陰陽師が紙冠をつけて祓をするのをみて、何のために紙冠をつけているのかと聞くと、祓戸の神は仏法を忌むから、法師姿のものは祓いの間はこれをつけるのだと答えた。寂心は紙冠を怒って破り、僧として仏法を忌むことの不都合を責めたが、これも渡世の業であるからやむえないと法師陰陽師が弁護した話があります。これは妻子ある民間の陰陽師の生活の一面を物語るものでありましょう。
『今昔物語』にも同様の話がある。
2)智徳
十一世紀初めの頃の播磨国には著名な陰陽師がいた。智徳である。智徳は藤原道長の陰陽師であった安倍清明と術比べをして式神奪われ、清明の弟子入りしたことで知られていた。
しかし、智徳は播磨の明石にあって陰陽師の術を使用して海賊を捕らえた恐るべき陰陽師であった。
3)蘆屋道満
もう一人、よく知られた陰陽師が播磨の国にいた。智徳と同時代の人と伝えられている。それは江戸時代の地誌『播磨鑑』に蘆屋道満、印南群岸村の人と紹介されている陰陽師であった。どういうわけか、この陰陽師の方が播磨では大きな地位を占めている。智徳が安倍清明の弟子となり播磨を去って行ったのに対し、道満はどこまでも播磨の人であり、その後継者たちは播磨に蟠踞(ばんきょ)し活躍したからであろうか。もっとも、道満自身も内心は都で活躍しようと考えていたらしい。そのことが『宇治拾遺物語』に書かれているのである。
「一八四、御堂関白御犬清明等奇特の事」がその話である。
この話のとおりであれば、蘆屋道満の陰陽の術は安倍清明に対し得るほどのものであったということになる。
つまり、陰陽師安倍清明に匹敵する陰陽師が、播磨から二人も出ていたのである。
4)道満の裔(峰相記)より
安倍清明にやぶれた道満が播磨の国に帰り、そこの地で生涯を送ったという。そしてその弟子たちが英賀(あが)・三宅のあたりで陰陽の術をおこなっていたというのが、」、室町時代初期の播磨の地誌である『峰相記』の説くところである。
つまり、播磨の国姫路あたりには蘆屋道満の裔と称する陰陽師が多数住んでいたということをこの史料は語っていることになる。
彼らは、どちらかといえば、道満に誇りを持って、道満を自分たちの始祖と仰ぎ、日常の活動を行っていたということになる。そして安倍家の陰陽道に対してはかぎりなき対抗心を持っていたのではなかろうか。これは十世紀から十四世紀頃までの話である。
5)姫路付近の陰陽師集団(播磨鑑)より
蘆屋道満は江戸時代の地誌『播磨鑑』には印南郡岸村の出身であることや、『峰相記』の佐用の流罪、そしてその後裔者達の姫路付近での居住のことを書いているところを見ると智徳の明石での活躍いう『今昔物語』とは、別の陰陽師集団が姫路付近、あるいは印南郡あったことをいっていることになる。
蘆屋道満の陰陽師集団の存在は予想以上に大きな動きをしていたと思われる。
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