1.蘆屋道満のこと 2.佐用の陰陽師 3.「信太妻」の陰陽師 4.吉備真備 5.播磨と陰陽師 6.牛頭天王と法道仙人
播磨と陰陽師
1)律令政府の陰陽師政策(設置)
吉備真備、和気清麻呂を生み出した岡山県は、現在なお宗教活動の盛んなところである。そうした中に陰陽師の活動が伺われる跡がある。このような岡山県の刺激を受けたのが兵庫県でも県境にあたる佐用郡地方であろう。ここもオガミヤサンの働きが活発なところである。
律令政府は陰陽道の独占的利用をはかりながらも一方では、必要な国には陰陽師をおいた模様である。それは『類聚三代格』第五巻に記されている貞観十四年(872)五月二日付けの太政官符に、陰陽寮の解状にいわくとして、出羽国と武蔵の国には陰陽師はもともといなかったが、その申請によって出羽国に陰陽師を置き、武蔵の国には権史生を置いた。
しかし、この武蔵の国の権史生も出羽国にならって陰陽師と名称を変えたいということを述べているものである。そうすると、この出羽の国と武蔵の国には「元来無陰陽師」というのであるから、他の諸国には置かれていたということになるのであろうか。
もっとも貞観十八年(876)七月二十一日の太政官符には、「不虞之戒。非占難決。望請。滅史生員。置陰陽師」とあるので、国境地帯、治安の不充分なところに設置されたものと考えられる。
もちろん、陰陽師自身はその国の出身者にかぎることはない。陰陽道は「習伝」、つまり学習されるものである。才能のある者が学び陰陽師となった。そのうちの一人が、『続日本紀』巻十の承和八年(841)閏九月甲子(二十八)の条にある伯耆国八橋郡人陰陽博士正六位下春苑宿称王成であるといえよう。
2)播磨の陰陽師たち
@阿保朝臣人上
それにしても、播磨の国と陰陽師のかかわりはこの点からもつことはない。もう少し別の要素があったのではないだろうか。ところで早く播磨の国と関わりを持った陰陽頭があった。阿保朝臣人上である。延暦十五年(796)九月癸巳(四)の条に見える。しかし、この人の実際上の活躍の程はよくわからない。
A滋丘朝臣川人
このあと、実際上の陰陽師として登場してきた人がいた。但馬の国二方郡刀岐郷(兵庫県美方郡)の出身と考えられている陰陽権允兼陰陽博士正六位上刀岐直川人、姓をを斎衡元年(854)九月丁亥(五)にかえて滋丘朝臣川人と名告った陰陽師であった。
この滋丘川人が貞観三年(861)正月十三日戊子の日に播磨権大掾に任官している。
B滋丘川人のあと、播磨と関係する記事
貞観六年(864)八月八日壬戌の条である。つまり、川人の記事の三年後のものである。
「播磨国飾磨郡人陰陽大属正六位上日下部利貞。父武散位正六位下日下部歳直等賜姓日下部連。貫附攝津国嶋上郡。狭穂彦命之後也」播磨国飾磨郡人陰陽寮陰陽師従八位下弓削是雄。父正六位上弓削連安人等。改本居貫附河内国大県郡。
というものである。
ここのは播磨の国の出身である陰陽寮の官人と陰陽師がいるのである。
そして、狭穂彦の後胤と伝える日下部氏は京都府の丹後半島にその根拠地を置く五世紀以来の豪族であった。
C播磨広峰神社
少なくとも、飾磨郡には貞観六年を遡る頃から陰陽道に長じた人々がいたということになる。
それは滋丘川人といい、日下部利貞といい、日本海側から出てきた人であった。そして大事なことは、この播磨の地、印南郡にいたるまで吉備氏の勢力が及んでいたことである。
それもこの吉備氏は日下部氏と密接な関係があった。このような陰陽道の人々が集まった所が牛頭天王を祭神とする播磨広峰神社であった。やがて陰陽道の賀茂家も十世紀から十一世紀のかけての頃にこの地へ進出してきた。
D智徳と同一人物と考えられている蘆屋道満
この牛頭天王は陰陽師智徳法師が活躍した明石から移ってきたものであると、吉田兼倶は『二十二社註式』で述べている。
そして明石は『今昔物語集』の時代には、大変な文化の高さを誇った所であった。それは巻十四の「比叡山僧宿播磨明石値貴僧語第四十四」の話に伺い知ることが出来る。名の知らぬ「法師陰陽師」が当時疫病が大流行していた明石の津の浜で、疫病を鎮めるために、胎蔵界供養法、金剛界供養法を厳重に行ったというのである。それが、しかも、
「山ニシテ多ノ止事无キ事共ヲ見シカドモ。未ダ此ク貴ク厳重ナル事ヲバ不見ザリツレバ」
というものであった。これを明石の一介の陰陽師法師がおこなったのである。そして、この供養法が終わると備前の方へ去っていったという。
これらの話を総合すると次のようになる。
一、
十世紀、十一世紀の播磨は実力ある備前の陰陽師や丹波、丹後の陰陽師が入りくんで活躍していたところ。
二、
このような背景があるからこそ、播磨の蘆屋道満が安倍晴明と共に、実力派として京都において著名になったのであり、播磨の陰陽師の始祖的な位置を占めさせられるにいたったと考えられる。
三、
しかも、道満は明石で活躍した智徳と同一人物と考えられていた。
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