1.蘆屋道満のこと 2.佐用の陰陽師 3.「信太妻」の陰陽師 4.吉備真備 5.播磨と陰陽師 6.牛頭天王と法道仙人
「信太妻」の陰陽師
1)道満が描く、播磨の陰陽師の系譜
播磨の陰陽師集団について、道満が播磨の法華山一乗寺の法道仙人の系譜を引く陰陽道を学んだ。法道仙人は大化時代に渡来し、飛鉢の法をよくしたことでしられた仙人と「信太妻」(延宝二年・一六二四年刊、『説経節』所収)に紹介されている。
そこには、神通の人といわれた陰陽師安倍清明が安倍仲丸の七代後胤であり、四天王寺と住吉との間にある安倍野の里の住人であると由来を述べた後、播磨の出身で、占形の名人といわれた芦屋の道満法師の話となる。道満は播磨の国印南の住人であり、占形によって朝家に仕え、数カ所の領地を持つ。弟石川悪右衛門の尉つね平も兄のことによって河内守護となり石川郡に住み、栄華の栄え、なにごとも、心にまかせずということがいうことがなかった。ところが、つね平の妻がかぜがもとで万死の床に伏したとき、兄の道満法師を呼びその治療を依頼した。そこで道満が
「先祖、芦屋の宿禰(すくね)きよふとが、唐土(もろこし)の、法道仙人に会いて、天文地理、易暦を学び、書物に著(しる)し、子孫に伝えし、所伝を取り出し」
そして、この病気は女狐の生肝を食べさせたら平癒すると占った。
ここにあるように、道満は播磨の陰陽師の系譜を、次のように描いた。

唐土の法道仙人−清太(きよふと)−道満

2)安倍清明の陰陽道の系譜
安倍清明は安倍仲丸の伝えた天文道の巻物と「母の野干、竜宮の秘符(ひふ)、名玉までを、与えぬれば、なお頼もしさかぎりなし」といったところへ、獅子に乗った白髪の老僧、伯道(本地文殊菩薩)があらわれ、仲丸の師であると名乗り、さらに清明が仲丸の再誕であると伝えた。そして、『金烏玉兎』をわたし、安倍家に伝わる、伝来書とあわせ読むようにといい、母の野干は信太の明神、吉備大臣であることを教えた。そして、ついには烏の言葉がわかるようになり、そのことによって天皇の病気の原因を知り、天皇は平癒を見ることになった。この結果、三、四歳にして陰陽頭になったというのである。
従って、安倍清明の陰陽道の系譜は、

伯道−仲丸−信太の明神(吉備大臣)−清明

3)江戸時代にいたるまで隆盛をきわめる播磨陰陽師   
この両者が、天皇の前で験力争いを行い、道満がやぶれる。道満は清明の父保名を一条戻り橋で殺害、それを清明は蘇生させ、道満の首を落としたという。ここは道満を播磨の国に流したという話はない。そして、道満が清明を殺し、伯道が仇を討ったという話もない。「信太妻」のこの話は蘆屋道満の験力をこえた安倍清明を描き、清明流の正当性を主張しがたいがための筋書きのようである。逆に言えば、播磨の蘆屋道満流の陰陽師がいかに江戸時代にいたるまで隆盛をきわめていたかということである。

4)ぬけおちている賀茂家の系譜
「信太妻」では賀茂家の系譜がすっぽりぬけている『今昔物語』では、賀茂忠行に安倍清明は陰陽道を学んでいるのである。
もっとも、『帝王編年記』の一条院の永延元年(九八七)の条には、賀茂保憲の弟子としている。
保憲は忠行の子である。そしてこれより後、陰陽道は二家にわかれ、安倍家を土御門といい、賀茂家を幸徳井といっているので、安倍家と賀茂家が対立することはなかったからであろうか。

5)強引というべき安倍清明と吉備真備の直接結合
安倍清明が吉備真備の陰陽道の流れを汲むといい、蘆屋道満が法道仙人の流れを汲むという話はおもしろい。
姫路市の広峰神社にはこの吉備真備が勧請した牛頭天皇を祀っているからである。しかも『峰相記』によれば、吉備真備は陰陽道にすぐれた人という。そして、また、享保十五庚戌の自序のある村井古道の『奈良坊目拙解』の「幸下之町」には、
吉備真備以来の陰陽道を知る加茂氏が奈良に住んでいると書いてある。このことは、吉備真備に陰陽道に熟達した人、陰陽道の始祖的位置にある人という理解が浸透していたということになるであろう。このために、安倍清明の師が賀茂忠行、あるいは保憲ということは明らかであるにもかかわらず『信太妻』で見た如く、強引ともいうべき方法をもって、安倍清明と吉備真備を直接に結合しようとしたのであったと考えられる。

6)『信太妻』のもつ意味
陰陽道を継承する者は、特殊な才能と呪力とやはり学力も必要である。むしろ権力を得た藤原氏が自己のために陰陽師を使用するようになると、さらにその才能を要求したことであろう。
特に、呪咀などにおいてである。
その様子は、『今昔物語』に記載されている数々の陰陽師の話によって知ることが出来る。
・保憲の挿話
・清明の挿話
この話を継承したのが、『信太妻』ということになる。清明のあと、その子吉平も道長の下で活躍し、もう一人の子吉晶は陰陽頭となり、吉平の子時親、時親の子国隋(ときゆき)、時親の孫泰長、泰長の子泰親と陰陽頭を任官した。
ここに見るとおり、安倍家が徐々に賀茂家を越えてきたようである。こうなってくると、安倍家としても、『今昔物語』の話の都合が悪いことになる。このために、仲丸との関係で直接に吉備真備と結びつけようとしたのであろう。これが『信太妻』のもつ意味であろう。
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