四神相応の都市をみる  (2003/10/06掲載)
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 風水、姫路をひらく 

上空から見た兵庫県姫路市
 奈良県明日香村のキトラ古墳の石室内壁に、亀に蛇が絡まる北面「玄武」の図を最初に、西の「白虎」、東の「青龍」、最後は二〇〇一年三月、南面「朱雀」が確認され、人々を驚嘆させたのは記憶に新しい。

 四方の守護神。それは、中国伝来の陰陽道(おんみょうどう)を基にした「四神相応(しじんそうおう)」の思想に通じている。

 東西南北の地形を四神に見立て、青龍は大河、白虎は道、朱雀は水辺、玄武は丘陵と定め、これらに囲まれた土地が、地相や方角を占う風水のうえからも繁栄のための最適地とする。

 古来、都は、この考えに則(のっと)って選ばれてきた。京都で言えば、御所の背後(北)を船岡・鞍馬山が守り、東に鴨川、西に山陰・山陽道、南には巨椋(おぐら)池。

 ここにもう一つ、都であったことはないのに、四神相応の風水都市がある。兵庫県姫路市。

 上空から見た。

 広峰山が北(写真では手前)にそびえ、江戸時代、支流が一本に集められ大河となった市川が東を流れ、西国街道が西へ延びる。そして南に瀬戸内海。御所にあたる場所は、姫路城だ。

 姫路がどうして、風水都市となったのか。手がかりとなる男がいる。ブームを呼んでいる平安時代の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明(あべのせいめい)の敵役で、蘆屋道満(あしやどうまん)という。

 播磨陰陽師だった。

 晴明のライバル道満 宿す 

道満塚の上、満天の星が輝く。播磨陰陽師たちはこの夜空を見上げて天文や占術を行ったのか。土地にゆかりの道満の塚よりも、谷を隔てた晴明塚の方が訪れる人が多く、整備されているのは皮肉と言えるかもしれない
道満塚の上、満天の星が輝く。播磨陰陽師たちはこの夜空を見上げて天文や占術を行ったのか。土地にゆかりの道満の塚よりも、谷を隔てた晴明塚の方が訪れる人が多く、整備されているのは皮肉と言えるかもしれない
 兵庫県姫路市から北西に五十キロ。同県佐用町乙大木谷。九百八十八枚の棚田を見渡す里山の頂に、播磨の陰陽師(おんみょうじ)、蘆屋道満(あしやどうまん)を祀(まつ)った「道満塚」がたたずむ。石段の上に宝塔が建つ。

 谷を一つ越えた一キロ足らず東の甲大木谷。同じ拵(こしら)えの「晴明塚」があった。京都の宮廷陰陽師だった安倍晴明(あべのせいめい)の塚が、なぜこんなところにあるのか。

 さまざまな伝説はあるが、つまりは、だれかが道満のために谷をはさんで「甲」と「乙」という対を成す場所に、晴明の塚を建ててやったのではないか。

 二人には、因縁がある。

 平安時代、関白・藤原道長が自ら造営した法成寺(ほうじょうじ)を訪れた時のこと。飼い犬が門に立ち塞(ふさ)がり、道長を中へ入らせようとしない。道長は晴明を呼んだ。

 宇治拾遺(しゅうい)物語「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」の逸話だ。

 「これは君を呪詛(じゅそ)し奉りて候物を、道に埋みて候」。晴明は、道長を呪(のろ)い殺そうとする物が地中に埋めてあると占い、言葉通り、黄色のひもで十文字に結ばれた土器が掘り出された。

 「晴明が外には知りたる者候はず。もし道摩(どうま)法師や仕(つかまつ)りたるらん。糺(ただ)して見候はん」(私以外にこの呪術を知っている者はいない。もしや道満の仕業なのか。問いただしてみましょう)

 平安のころ、朝廷は「陰陽寮」という言わば省庁を設け、陰陽師はそこの役人として仕えていた。為政者のブレーン的存在で、なかでも晴明は「天文博士」の肩書で道長に抱えられたエリート陰陽師だった。

 一方、道満はどうであったか。

 江戸時代の地誌「播磨鑑(はりまかがみ)」には「印南郡岸村ノ産 今百姓ノ屋鋪ト成 則道満封シタル井戸アリ」として、現在の加古川市内の寺境内に生家があったというが、くわしくはわからない。

 ただ、播磨一帯からは奈良期以降、多くの陰陽師が出ている。「平安時代には陰陽師の拠点となっていたはず。なぜそうなったかといえば、四季を通じて星の観測に適していたからだろう」と、播磨陰陽師を研究する神戸女子大大学院の田中久夫教授は推測する。

北斎が描いた「易術を競ふ」(京都府立総合資料館蔵。右が道満、左が晴明)
北斎が描いた「易術を競ふ」(京都府立総合資料館蔵。右が道満、左が晴明)
 道満と晴明の塚から南へ一・五キロほど、三角形のもう一つの頂点となるあたり、西はりま天文台がある。ふり仰げば、空は澄み、高い。星の動きを観測して天文・暦学や呪術を司(つかさど)った陰陽道のふるさとにふさわしい。

 晴明が「国家陰陽師」の代表であるなら、道満は「民間陰陽師」の代表だったのだ。その在野の道満が、京へのぼった。

 都で地位を得ようとする野心からだったのか。それとも、時の権力者が呼び寄せたのか。どちらにせよ、道満の法力は、晴明が脅威としたほど聞こえていたのだろう。

 播磨陰陽道の系譜、脈々と 

 しかし、道満は敗れた。

 晴明に呪詛を見破られた道満は、ついに白状した。「堀河左大臣顕光公のかたりを得て仕りたり」。左大臣で道長の政敵だった藤原顕光に依頼され、道長を呪い殺そうとした、と。結果、道満は「本国播磨へ追ひ下されにけり(追放された)」

 道満のその後はいつ没したかさえわからないが、室町時代の地誌「峯相(みねあい)記」には、以下のようにある。「道満の子孫は佐用を後にし、多くは(姫路の)英賀保や三宅の辺りで陰陽道を継いだ」。陰陽道は、姫路の地で脈々と受け継がれた。

 道満の時代から六百年を経た一六〇〇年に姫路に入城した池田輝政も、播磨陰陽道の思想を意識していたに違いない。

上空から見た姫路城。天守閣が頂点の二等辺三角形の中に各門が収まる
上空から見た姫路城。天守閣が頂点の二等辺三角形の中に各門が収まる
 姫路市民によって、道満を筆頭とする播磨陰陽師と風水都市をアピールしていこうとする動きが始まっている。

 民間の研究者から次々、ユニークな指摘も出されている。例えば、姫路城城郭の門跡と近くの寺社・小丘陵を結ぶと、これを底辺に天守閣を頂点とするいくつもの二等辺三角形が浮かび上がり、しかも城の各門はこの三角形にほぼすっぽり収まるという。〈法則〉を見つけた姫路在住の寺前高明さんは「三角形は陰陽道で魔を寄せつけず、災厄から守る形とされている。築城の時に門を設ける基準にしたのではないか」と話す。

 不思議なことに姫路城は、南北朝時代に砦(とりで)としてできたその始まりから一度として戦闘の場所となったことはない。太平洋戦争時の二度の空襲でも被害に遭わなかった。今は白鷺(しらさぎ)城の美名を得て、古城として国内初の世界遺産にも登録された。

 四神相応の地の加護であるような気がしてきた。

文・福原 幸治
写真・吉岡 毅

姫路市周辺の地図
姫路市周辺の地図
覚えがき  陰陽道は古代中国の陰陽五行説に基づき天文や暦、占術に関係する。日本には6世紀初めごろ伝わったとされ、宮廷や公家の間に広がっていった。陰陽五行説は陰と陽の2つの「気」を基にした陰陽説と、森羅万象が「木、火、土、金、水」の5つの要素で構成されるとする五行説が一体となったもの。これを基に地形や風の流れ、方位などで開運、吉凶判断をする風水学が生まれた。陰陽道と風水とは同一ではないが、ともに陰陽五行説に由来している。

見どころ  兵庫県佐用町の道満と晴明の塚近くには、京を追われた道満、追ってきた晴明が矢を放ちながら戦ったと伝えられる「■飛(やりとび)橋」や、敗れた道満の首を洗ったという「おつけ場」がある。このところの陰陽道ブームで訪れる人が増えている。県立西はりま天文台公園には来年秋、口径2メートルの国内最大の天体望遠鏡が導入される予定。

 ■= やり
この一冊と歩く


◆ 妙な老人 髪は白く 蓬のごとく ◆

 清涼殿――

 階(きざはし)の上の簀(すのこ)に、晴明は座している。

 晴明のすぐ前に座しているのは、妙な老人であった。

 髪は白く、ぼうぼうと蓬(よもぎ)のごとくに伸び、やはり白い髯(ひげ)を生やしている……薄い嗤(わら)いを浮かべている唇から覗(のぞ)いている歯は、黄色く、長い。

 蘆屋道満――

 ……殿上に上ることなどできぬ身分の道満なのだが、この日だけは、特別に帝(みかど)から許可が下りている。

 夢枕獏
  「陰陽師 鳳凰ノ巻」より

 安倍晴明と蘆屋道満が村上天皇(在位十世紀半ば)の前で呪術を競い合う場面だ。

 この言い伝えも後世の創作だろう。道満に関する史実と思われる記述は少ない。しかし、ずば抜けた陰陽師としての力からか、晴明との対決の逸話や伝説は江戸時代に「安倍晴明物語」が刊行されて世間に広まり、歌舞伎でも「芦屋道満大内鑑」などの題目で演じられてきた。

 この天覧の対決は、道満が、目の前に示された箱の中身を大柑子(夏みかん)十五個と言い当てるが、直後、晴明が呪術を使って大柑子を十五匹のネズミに変えて勝つ。敵役、道満は常に晴明に勝てない。勝負の様子は、葛飾北斎が「易術を競ふ」と題した絵手本に描き、京都府立総合資料館に所蔵されている。






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