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滋岳川人
陰陽頭。『世要動静経』『指掌宿曜経』『滋川新術遁甲書』『金匱(きんき)新注』など数多くの著作残しておりますが、すべて今伝わっていません。題名からして遁甲方術や宿曜道・式占に精通したことが予想され、滋川新術の名の付く独自の方術もあったことがうかがわれます。
『今昔物語集』に、彼の得意な遁甲隠形の術を次の通り紹介しています。
文徳(もんとく)天皇が亡くなって陵墓地を選ぶため、彼は大納言安倍安人(やすひと)についてゆき、用務を済ませての帰り道、深草の北辺りを通っていると、地神が追ってくるのに気がついた。彼は、大納言にすすめて二人とも馬を下り、田に刈り上げた稲の中にもぐり込んで隠れた。しばらくすると、地神が大勢の眷属(けんぞく)をつれてその辺りを探しまわった末、見つからないので今年十二月晦日夜半に家の天井裏までくまなく探すから、その夜また集まれと指示する声がして去って行った。やがて大晦日になり、川人は大納言を連れて嵯峨の寺へ行き、堂の天井裏に上がって呪いを誦し、大納言も三蜜を唱えていたので見つからず事なきを得たという話。
解説:
どうしてわざわざ嵯峨の寺まで行ったのか、あるいはこの寺が京都の中心から乾(北西)の愛宕山の方向に位置し、愛宕山は悪鬼の住むところとされたので、大晦日の追儀(ついな)にはこの方向に対して祓を行うことがあったのではないかと思われる。
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