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陰陽道宗家の登場
平安朝は律令制の崩壊がすすみ、北家藤原氏が政権を握るに伴い陰陽寮官僚も天皇や公家の私的生活に奉仕する方向に進み、宮廷社会の因習的形式的な権威づけに陰陽道は大きな役割を演じることとなった。

1、賀茂忠行

こうした風潮にのって賀茂家を中心とする人々が進出し、この道に君臨し、歴史の脚光を浴びるに至った。その先駆的人物が賀茂忠行である。
そもそも賀茂氏で最も古く知られた人物が、奈良朝初めに出た賀茂役君小角(えんのきみおずぬ)でありまして、後世、修験道の開祖と仰がれた。
地位:近江掾(じょう)・丹波権介(ごんすけ)・従五位下にあった。
承平天慶の乱において、白衣観音法を修して兵を鎮められるように藤原師輔に進言した。当時、密教の高層らはこの法を知らず、真言宗の寛静(かんじょう)僧正に命じて初めて勤修した。
彼の進言は注目されました。その卜占は、三善為康が十二世紀の初めに著した『朝野群載』に、天徳三年(九五九)二月、村上天皇は彼の占術を試みるため、水晶の念珠を箱にいれ、これをあてさしたところ、朱糸をもって貫き、八角の匣(はこ)にはいっていると看破しました。これは射覆という占法で、手に物を握って当てさせる遊びにもなっております。
『今昔物語』には忠行の卓越した占術を伝える挿話が残っています。
忠行は自らが達人であったばかりでなく、その子保憲(やすのり)をも非凡な陰陽師にそだて、安倍清明なる傑出した弟子を出すことになって、他氏の追従を許さぬ宗家に仕上げた。
その一端を示す話が『今昔物語にのこっています。
・保憲の挿話
・清明の挿話
こうして保憲・清明とも若い頃より忠行にその英才をみぬかれ、指導された。
保憲は父より官途のすすみは早く、暦博士従五位下になったとき、父の官位を超えたので、とくに上奏して父にも従五位下を賜るようにはからって、下記の地位に達した。

2、賀茂・安倍両氏による暦・天文両道の支配体制

1)賀茂保憲
従四位上、陰陽頭、天文博士、主計頭、穀倉院別当
保憲には、光栄(みつよし)という誰にも恥じぬ秀才の子息いて、これも従四位上、暦博士、陰陽博士、大炊、右京権大夫を歴任しました。そこで保憲は従来伝えてきた暦・天文両職を分かち、光栄には暦道を清明には天文道を伝えた。
光栄について、藤原行成(ゆきなり)の日記『権記(ごんき)』に名人ぶりをしめす逸話が記されています。
2)安倍清明
従四位下、天文博士、大膳大夫、左京大夫、穀倉院別当、播磨守等の地位にたっする。

賀茂・安倍両氏による暦・天文両道の支配体制は、全盛期の藤原摂関政治体制の下で確立しました。
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