1.蘆屋道満のこと 2.佐用の陰陽師 3.「信太妻」の陰陽師 4.吉備真備 5.播磨と陰陽師 6.牛頭天王と法道仙人
播磨と陰陽師
吉備真備
1)陰陽道(日本)の始祖
吉備真備が日本人の陰陽道の始祖的な人物と考えられたのは、早く平安時代に見ることが出来る。大江匡房の『江談抄』第三(十二世紀初頭成立)がそれである。
そこには、吉備真備の大変不思議な話が「吉備入唐間事」に紹介されている。
2)陰陽道を重要視する時代
このように吉備真備を陰陽道の始祖と理解するのは、吉備真備の生存、活躍した時代が陰陽道を重要視する時代であったからであろう。たとえば『続日本紀』には、「亦是天文。陰陽。暦。医針等。国家所要」とあり、「陰陽生者周易。新撰陰陽書。黄帝金匱。五行大儀」と学ぶものを指示し、その理由を「有尊師之道終行。教資之業永継。国家良政莫要於茲。と述べた。そして「陰陽寮。陰陽暦数。国家所重記此大事。故改為大史局。とあるように、隋唐の制である秘書省−大史局へと名称の変更をしているのを見る。
これは単なる名称の変更ではなく不測の未来のことを予知する学問であるため、国家、天皇が陰陽道の知識を独占的に利用しようという意図のものであったことはあきらかである。
3)藤原仲麻呂の陰陽道保護策と独占策
とこかく、これらは陰陽道を積極的に利用しようとする政策のものであったということができるであろう。これは、藤原仲麻呂の行動によって確認することが出来る。
宝亀六年(七七五)五月已酉(十七)の条の陰陽頭兼安芸守大津連大浦の卆伝の記事である。そこには次の記事が記載されている。
「大浦者世習陰陽。仲満甚信之。問以事吉凶」
考えてみれば、先の四例は仲麻呂と共に出ているのである。なかでも、天平宝字元年八月已亥(二十三)の条は、同年七月橘奈良麻呂を惨殺して権力を確立した後に出された政策である。
かかる点からいえば、仲麻呂は陰陽道の持つ意味を十二分に知っていたということになる。ここに矢継ぎ早に陰陽道の保護策と独占策を展開したということになる。
4)仲麻呂の逆謀
これがかえって逆に身に禍(わざわい)の及ぶ恐れた大津によって逆謀が密告され身を滅ぼすもととなった。逆謀だからこそ仲麻呂は未来を知りたかったのであろう。仲麻呂以外に大津の持つ陰陽道の知識を人々は利用としようとしたらしい。それは、神護景雲元年(七六七)八月癸巳(十六)の条にある和気王の粛清に連座させられていることから知ることが出来る。
さらにその持つ知識が警戒されてであろう。同年九月癸亥(十六)の条には日向員外介大津連大浦の解任を告げたなかに、その所有する書物が没収されているのを見る。
5)仲麻呂を倒した吉備真備
こうした陰陽道の恐ろしさを知っていた仲麻呂を倒したのが「入唐。留学受業。研覧経史。該渉衆芸」という名誉を受けていた吉備真備である。
このことによって、吉備真備が後世の陰陽師たちによってその始祖と仰がれることになるのであろう。
ことに賀茂氏にはその始祖に吉備彦之孫、右大臣吉備麻呂という名をのせているのを見る。
6)陰陽師の間で神格化(宿曜占文抄
京都栂尾(とがのお)高山寺が所蔵する『宿曜占文抄』は、平安朝の宿曜道に関する珍しい史料ですが、その中で真備は在唐中、三史・五経・刑名・算術・陰陽・暦道・天文・漏刻・漢書・遁秘術:・雑占等十三道に通暁し、とくに宿曜属星祭の秘宝をもって従二位右大臣まで昇進し、また自分の定業を薬師仏に祈って知ったと述べていまして、平安朝にはすでに陰陽師の間で神格化され、崇敬されていたのです。
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