1.蘆屋道満のこと 2.佐用の陰陽師 3.「信太妻」の陰陽師 4.吉備真備 5.播磨と陰陽師 6.牛頭天王と法道仙人
佐用の陰陽師
1)道満塚(『播磨鑑』より)
『峰相記』は、播磨の佐用郡に陰陽師道満は流されたと伝えている。これを受けてか『播磨鑑』にも佐用郡の江川郷猪伏村に「道満塚」があることを記している。ところが、現在でも道満塚、清明塚の二つの塚が佐用町大木谷の相対する山(岳)の頂にあり、村人によって祀られているのである。
2)道満塚(村の伝説より)
道満の後を清明が追いかけてきて、二人ともそこに倒れて死んだ。それで塚を立てて供養したと伝えている。そして道満の塚のある土地の所有者の上田家が、このために道満の祭りを一月二十八日と八月十八日の両度行っているという。
3)道満法師の来歴書(賀茂・安倍家の陰陽道とは相違・上田家所蔵より)
道満法師の陰陽道に対するすさまじいまでの執念が伺われる。また道満の流れを引くもののくやしさがにじみ出ている一文といえる。
この来歴書が法道仙人・清太(きよふと)、そして道満と伝えられてきたものであって、賀茂家・安倍家の陰陽道とは相違するものであると述べている。播磨の印南郡蘆屋村出身には賀茂家・安倍家と別の陰陽師集団であると自称するものがいたのであった。
一方で、このような道満法師、ひいては播磨の陰陽師集団を安倍家が組織したとでもいいたいような「来歴」である。もちろんこの話は『今昔物語』の智徳法師の話と交流があってのものであろう。
4)道満流と安倍流の陰陽師集団の対立
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『宇治拾遺物語』『古事談』『峰相記』にみるように、道満流の陰陽師集団と安倍流(土御門家)の陰陽師集団は対立するものであった。このことは佐用の民衆にも今も伝えられ、先に紹介したとおり、蘆屋道満と安倍清明が互いに争い、両名ともこの地に倒れた。その供養碑が佐用町大木谷に残る道満塚と清明塚であり、その両塚が相対する岳の上に設けられているということである。
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兵庫県の隣県である岡山県の浅口郡金光町占見にも清明塚・道満塚がある。しかも、ここは陰陽師との関係が深いところであった。安倍清明の遺跡のある中に蘆屋道満の話があった。岩に止まって動かない鳥から凶事のおこることを知り、その岩を爆破させたところ、黒々とした血が流れ出たという話がある。この話は蘆屋道満が流罪の人という感覚で理解できない話である。
5)セーマン符・ドーマン符
このように清明と道満を同等の位置に置こうというのは、道満の出身の播磨やそれと隣接する岡山県の金光町だけでない。
三重県鳥羽市国崎町や度会郡度会町南中村などで見ることができる。国崎では「しめの札の表に『蘇民将来子孫之家』と書き、裏に急々如律令。その左右に、セーマン符(清明判)、ドーマン符(道満判)を描いている」といい、度会の南中村でも「セーマン符(縦横の線)・ドーマン符(星形)を描いた木製剣型、獅子神楽のとき口取りが両手に採って舞う」という風に、病気除け、魔除けなどのときに、清明と道満を使用しているのである。
・セーマン符
星形のものである。
ドーマン符
「縦四、五横」を「臨兵闘者皆陣列在前」の九字を切りながら書いたものである。
6)国崎の海女の場合
「ナカネ(腰巻)やイソジャツ、手拭に、赤にしの尻の青い汁をもって、ドーマン・シメハンを染めて」海での仕事の安全を祈ったという。

以上の例を見ると、清明流の陰陽師と道満流の陰陽師が共に深く民間に浸透していたということになる。両者は好敵手であったのであろう。ともかく、鎌倉時代から室町時代にかけて両者の流れを引く者の対立が激化していったことが伺われる。
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