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牛頭天王と法道仙人 |
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吉田兼倶は『二十二社註式』で牛頭天王はもとは明石にある、それが今の広峰社に移ったという説を紹介している。 |
この件に関して興味深いのは、明石の北、神戸西区押部谷にある近江山近江寺の縁起である明徳第三壬申(1392)
夏六月十有八日の奥付けのものであるが、ここには地主神と思われる牛頭天王から現在の寺地を譲られた法道仙人が千手千眼観世音菩薩を祀ったということが書かれている。 |
だいたい、法道仙人は『元亨釈書』にも多聞天王と西峯にあらわれた牛頭天神の守護を受けて、印南郡の一乗寺を中心として活躍した仙人と記されている。 |
牛頭天王は、蘇民将来の話と関係しており、さらに除病の役割を荷わされている。 |
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そして、『祇園牛頭天王縁起』は次のようにして吉備大臣と関係させた。 |
「爰吉備大臣詣至霊壇。其時天王親告曰。我是牛頭天王。本師薬師如来也云々」 |
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このように考えると、牛頭天王は吉備氏と共に印南郡から播磨の明石に来て、やがて印南郡、飾磨郡へとその中心を移動させていったことになる。 |
そのところへ、印南郡の北、法華山一乗寺へ法道仙人伝説を持つ人々がやってきて活躍を始めた。そして徐々にその勢力を拡大していった。 |
なかには法道仙人の勢力と結合して活躍する牛頭天王を祭祀する人もいた。 |
これが法道仙人と牛頭天王の関係を語る話となる。 |
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この法道仙人に乗って活躍したのが、飾磨郡に住む陰陽師たちであった。日下部利貞、弓削連是雄等の系譜を引く人々であった。そして、その一部が京都の祇園社にその姿を平安時代の十世紀頃には見せていた。 |
広峰社(播磨陰陽師の中心) |
当初、播磨の陰陽師たちは飾磨郡にある広峰社によっていたと思われるが、吉備真備の陰陽道の系譜を引く賀茂氏によって平安時代待つには完全に奪い去られていたらしい。それでも播磨の陰陽師は上洛し、祇園社を拠点として貴族たちの陰陽師、賀茂、安倍氏と対抗した。十世紀終わりから十一世紀初頭の頃には、まだ明石には陰陽師智徳法師や比叡山の僧を驚かした法師陰陽師などのすぐれた陰陽師がいたのである。もちろんその中心は広峰社である。 |
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賀茂氏による広峰社、牛頭天王の支配から安倍氏へ |
十二世紀初頭になると、吉備真備が陰陽道の始祖的な立場を確立した。吉備氏牛頭天王と関係の深かった広峰社の陰陽師もこの立場をとっていた。このような播磨の陰陽師を組織にかかったのが、十一世紀の賀茂忠行の子、保憲であったということになる。これが、十二世紀になると広峰社も牛頭天王も賀茂氏が支配するところとなった。 |
これに加わったのが、土御門家の始祖である安倍晴明の後裔者たちであった。彼らは、大江許[の『江談抄』で見たように、吉備真備と安倍仲麻呂の関係から陰陽道の正当な後継者であることを主張し、それの結論が『信太妻』あったということである。このこともあって、ついには安倍晴明も江戸時代の随筆、松浦静山の『講師甲子夜話』に「播磨守安倍晴明」の名がでてくることになる。 |
むすび1ー播磨の陰陽師 |
播磨の陰陽師はそれこそ播磨権介滋丘川人、日下部利貞、弓削是雄の中から生まれ出、疫病の神、広峰の牛頭天王を祭祀し、そして、法道仙人「と関係を持つことによって、生きのびていたのであった。つまり、平安末から鎌倉時代にかけて広峰社が完全に京都の陰陽師の支配に入るにともない、牛頭天王を失い、このため印南郡の名刹である法華山一乗寺の法道仙人と直接結びついて生きのびようとした姿が、はしなくもあらわれたのが『信太妻』の話であったということになる。 |
むすび2ー法道仙人と陰陽道の結びつき |
法道仙人と陰陽道の結びつきは、広峰の神が明石から広峰に移ったという伝説と、ほぼ同じ時期に近江山近江寺の牛頭天王が法道仙人へ押部谷を譲ったという縁起があったために、法道仙人を支配する牛頭天王という形でむずびついたものと思われる。もちろん、法道仙人が飛鉢の法をよくするということと、陰陽師が式神を使うことが関係することと思われる。 |